岸和田城の伝承では、建武新政紀に楠木正成の一族、和田高家が築いたといわれています。天正13年(1585年)、羽柴秀吉は紀州根来討滅後、叔父小出秀政を城主とし、秀政によって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれました。
小出秀政・吉政・吉英、松平(松井)康重・康映をへて寛永17年(1640年)、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)。以後、明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治しました。
天守閣は文政10年(1827年)、に落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設を自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していません。
現天守閣は、昭和29年に建造された3層3階の天守です。本来は5層天守であったことが絵図などで確認されています。城跡は昭和18年に大阪府指定史跡となっています。
(岸和田市公式ウェブサイトより引用)
海岸寺は、大阪府岸和田市と大阪府貝塚市の市境にあたる貝塚市半田の海岸寺山と呼ばれる丘陵地にあった寺院です。明暦2年(1656年)、岸和田藩主岡部宣勝が、江戸幕府3代将軍家光の菩提を供養することを目的として幕府に願い出、許可を受けてこの地に造営したものである。天台宗に属し、東叡山寛永寺の末寺であった。寺領として150石が寄進され、境内地は1万3千坪に及ぶものであった。
本堂には家光以降の歴代将軍の位牌が安置され、岸和田藩歴代藩主が参拝に訪れた。また、本堂前の脇参道に歴代藩主が奉献した石燈籠が建立されていた。この本堂は大阪府貝塚市名越の常照寺に移され現存している。
それからの海岸寺は幕藩体制の崩壊により、明治2年(1869)に廃寺とされたが、幕末までに奉献された石燈籠の数は12基若しくは13基あったと考えられる。
発見されている石燈籠は6基で、大阪府貝塚市内に1基、岸和田市内に1基、泉南市樽井の南泉寺に4基が残る。
大阪府貝塚市津田南に残る石燈籠は、海岸寺創建当初に奉献された1基である。この石燈籠は風化して判読しがたいところがあったが、拓本により、3代将軍家光の諡号(死後におくられる名前)の「大猷院殿」及び横部分に「明暦三丁酉四月廿日」と刻銘され、奉献者である岸和田藩歴代藩主「岡部内膳正藤原行隆」の名前が判明した。また「奉献石燈籠」とある文字の下側に「両基」と彫られていることから、創建当初の石燈籠は2基寄進されたと考えられる。
もう1基は平成27年7月に大阪府岸和田市本町で発見しました。この石燈籠は第7代将軍徳川家継の諡号(死後におくられる名前)の「有章院殿」及びその横部分に「正徳六年丙申四月晦日」と刻銘され、奉献者である岸和田藩主「従四位下美濃守岡部氏藤原長泰」の名前などが判明した。
長尾山南泉寺は、樽井に位置する天台宗寺院である。天保14年(1843年)、の「泉州日根郡寺社覚」(『和泉志』所載)によれば、南泉寺は半田村海岸寺(現、貝塚市)の末寺で除地203坪余を有し、境内には鐘撞堂があったようである。
當村南泉寺由緒書によれば(『樽井町史』所載)、堂ノ山には虚空蔵菩薩の霊地としての伽藍があり、その境内には樽井と称する湧水があったが、根来一乱の際に兵火に罹り野原のようになったという。寛文の頃(1660年頃)檀方57人が天台の法儀に帰依し、寛永寺善王院念海法印に申請し、岸和田藩主岡部氏から寺地を下されて海岸寺末寺となった。
南泉寺には、明治2年(1869年)の海岸寺が廃寺とされた際に、海岸寺の宝物や石燈籠、庫裡の玄関が移された。
<彫刻>
海岸寺本尊である阿弥陀如来坐像と海岸寺の開山となる公海上人坐像。
<文書>
海岸寺・日光門跡との関係を示すものとして、紙本墨書 海岸寺由緒書がある。
高見山海岸寺は、明暦2年(1656年)、に徳川家光の位牌を安置するために、岸和田城の正南に建てられた天台宗寺院であることが記されている。
<石燈籠>
江戸期の紀年名を持つ石燈籠は本堂前で4基の花崗岩製を確認した。いずれも刻銘から徳川歴代将軍を供養するため岸和田藩主によって建立されたことが分かる。内容は古い順に次のとおりです。
1.寶永6年(1709年)「常憲院殿」(徳川綱吉)「岡部美濃守藤原長泰」(岡部家第3代)
2.天保12年(1841年)「文恭院殿」(徳川家斉)「岡部内膳正藤原長和」(岡部家第10代)
3.嘉永6年(1853年)「慎徳院殿」(徳川家慶)「岡部美濃守藤原長發」(岡部家第11代)
4.慶應2年(1866年)「昭徳院殿」(徳川家茂)「岡部筑前守藤原長寛」(岡部家第12代)
海岸寺史料探求同好会では、この6基以外のまだ発見されていない,岸和田藩歴代藩主が残した海岸寺の石燈籠の行方を捜しています。
些細な情報でも頂ければ幸いです。
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から