岸和田藩歴代藩主が海岸寺に奉献した石燈籠

 大阪府貝塚市半田に所在する海岸寺山と言われる所にあった海岸寺は旧岸和田藩の所領であった。地元の人々のなかで海岸寺山と聞いて思い起こす事は、府立老人ホーム及び明治31年陸軍大演習の際、明治天皇の臨幸の地であることぐらいでした。

 海岸寺という寺院を造営したのは、岸和田藩初代藩主岡部宣勝が徳川幕府3代将軍家光の菩提供養を目的とし、それに併せて岡部家の祖先をお祀りすることを願い、明暦2年(1656年)、に徳川幕府へ上申し、翌3年(1657年)、に許され日光山門主より高見山  長昌院 海岸寺の院号を賜った。

 又、海岸寺に奉献された石燈籠の数は、創建当初の石燈籠に両基と刻銘されていることから、一対で奉献されていたと考えれば13基が妥当である。時代は変わり幕末動乱を経て、明治2年(1869年)、の版籍奉還により岡部家は、その地位を返上することになった。そして歴代藩主が代々続けてきた海岸寺の保持も困難となり、やむなく廃寺せねばならなくなった。廃寺の際、13基の石燈籠は大庄屋や素封家に分配されたことになっている。

 

 私たち海岸寺史料探求同好会は、「岸和田藩歴代藩主が残した石燈籠の行方」について、平成23年(2011年) 、から活動を始め、令和5年(2023年)、現在に至っております。これまでの間に発見した石燈籠は全部で6基。内訳は貝塚市内の旧庄屋宅に1基、泉南市樽井の南泉寺に4基、平成27年(2015年)7月、岸和田市内の素封家で1基発見した。この発見は、海岸寺史を変えるに値する有意義な出来事であった。それから8年が過ぎ、この同好会の代表者である 赤坂 勇氏 が思いがけなく急逝されました。これを契機にマクロ的な視野で、この石燈籠の情報提供をして頂ければと思いホームページを立ち上げました。

 

 

 

   海岸寺石燈籠の詳細

 特徴として、地上高3m(10尺) 、竿(胴体部分)に節(ドーナツ型の輪っか)がなく、将軍の諡号及び奉献者である岸和田藩主の名前と建立年月日が竿(胴体 部分)に刻銘されています。

         

  皆様方のなかに「もしか、あの石灯籠では?」と思われる方や、このような形状の石燈籠が、ご自宅やご親戚、若しくは知人宅に、お心当たりが御座いましたら、お問合せ欄に、ご一報下さいますよう。心よりお待ち申し上げます。

 

 上の写真は、岸和田藩歴代藩主が徳川歴代将軍家の安泰を願い奉献した石燈籠で、現在も残存している内の一基です。